ボーイ・ソプラノのための音楽


これらの合唱団や聖歌隊にとって、グレゴリオ聖歌やオラトリオ、バッハの受難曲等の宗教曲は一番の本領であ るにもかかわらず、キリスト教徒が少なく教会音楽に親しむことの少ない日本では、なじみが薄いものです。
また、キリスト教徒であっても、なじみ深いのは賛美歌であり、キリスト教徒以外の者にとっては、わずかに「きよしこの夜」や 「もみの木」等いくつかのクリスマスソングを知っているというところが実情でありましょう。
ボーイ・ソプラノのために作曲されたわけではありませんが、フォーレの「レクイエム」のソプラノ・パートの「ピェ・イエズ」や合唱パートを 少年が歌うと、つややかな女声とは違うストイック(禁欲的)な雰囲気をかもし出すので、あえてそのようなCDを買い求める人も少なくありません。
また、ボーイ・ソプラノの愛好家としても知られるブリテンは、少年合唱のための「キャロルの祭典」なども作曲しています。
日本では、最近外来の少年合唱団の公演が盛んですが、宗教曲に人気はあまりなく各国の歌曲や民謡に人気があります。
例えば、ウィーン少年合唱団の公演プログラムは、いつも3部構成になっており、 第1部・宗教曲、第2部・オペレッタ、第3部・歌曲、民謡、ウインナ・ワルツとポルカとなっています。
この順序は、人気の順序でもあります。また、レコード・CDの売り上げも、以前はほとんどが、歌曲や民謡であって、 宗教曲がベストセラーになることはこれまであまりありませんでした。ところが、この10年ほど、グレゴリオ聖歌がブームになったり、 イギリスの少年合唱団のトップソリストばかりを集めて組織した「ボーイズ・エア・クワイア」の「少年のレクイエム」がヒットになった りするといった新傾向も見られます。
しかし、そのファンは殆どが女子の中学生・高校生や20代の女性であり、これがきっかけでクラシックファンになることも多いのですが、 このファン層は移り気であることも否めません。
このあたりが日本の特殊性で、ヨーロッパでは、ボーイ・ソプラノのファン層の中心は、むしろ成人であり男性ファンが多いそうです。
この辺りに文化の差を感じます。
さて、18世紀以後は、それ以前ほどボーイ・ソプラノは重要視されなくなってきましたが、オペラにおいては、合唱あるい はソロで、様々な場面に用いられています。
例えばオペラの合唱としては、プッチーニの「ラ・ボエーム」や「トスカ」、ビゼーの「カルメン」、フンパ ーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」、ソロとしては、モーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」のタイ トルロール、「魔笛」の三童子、プッチーニの「トスカ」の牧童(舞台裏のかげ歌になることが多い)、ブリテン の「ねじの回転」のマイルズ少年の役などにボーイ・ソプラノが使われています。
主演が与えられるオペラとしては、メノッティの「アマールと夜の訪問者」が挙げられます。
上演時間1時間のほとんど出ずっぱりの大役と言えましょう。

早くなった変声期とその影響


変声期は、個人差もあり、また、時代、地域、人種、遺伝、生活環境、風土などによって差がみられます。
一般的には、暖かい、都会化、肉食という条件は、変声期を早めると言われていますが、現在の日本では、テレビなどの発達による情報の普及や、食生活の向上のため、以前ほどあまり地域差はみられなくなりました。
むしろ、いずれの地域でも、体位の向上、環境の変化、情報量の増加等に伴う変声期の低年齢化がみられます。
これは、他の第二次性徴の出現に見られる発達加速現象あるいは、発達の前傾化の現れの一つです。
ダウ(学者)は、バッハに指導された少年合唱団の資料から、18世紀の男子の変声期をほぼ18歳と推定しています。
1732年生まれのハイドンは17歳で、1797年生まれのシューベルトは、16歳で変声期を迎えたという記録が残っています。
変声期が早く訪れるようになったことは、それだけボーイ・ソプラノとして実質的に歌える期間が短くなることであり、歌の 心を深く理解して歌える前に変声してしまうことになりがちです。
年齢の壁を破ることは、難しいことです。やはり、12歳の少年と14歳の少年では、声や歌心の育ちも違います。
このことが、世界の少年合唱団の指導者にとっても大きな悩みとなっています。


変声期の心理


さて、少年たちは、変声期をどう受け止めているのでしょううか。
慣れ親しんだ声が変わったり、出しにくくなったりすることは、少年たちにとって大きな不安なのです。
それと、同時に、いつ変声するかということも、少年たちにとっては、大きな関心事です。
変声の早い少年が周りの友達にからかわれたり、親や周りの大人からその早熟ぶりを指摘されて精神的に傷ついたり、 無口になったりすることはしばしばみられます。
また、反対に変声の遅い少年が、周りの友達が次々に変声するのに、自分だけ取り残されるような気持ちになって、あせることも見られます。
思春期は、周りの友達と比べて早い遅いということがたいへん気になる時期です。
しかし、この不安は、全員が変声してしまえば収まるという性質のものです。
ヨーロッパでは、ボーイ・ソプラノのことを「神様のいたずら」と呼んでいるようです。
神様がある少年に美しい声を与えておいて、ある時期がきたら、否応なしに奪い去ってしまうところからきた言葉です。
たいへん美しくも残酷な名前です。
平均的な少年でさえ、変声期は不安や悩みが多いのですから、まして、美しいボーイ・ソプラノを持った少年にとって、変 声期はかなり辛いことでありましょう。
古い例では、ハイドンは、変声によって、弟に独唱者の座を奪われたとき、友達のおさげ髪を切って合唱団を追放さ れてしまったという逸話が残っています。
また、ウィーン少年合唱団を舞台にして描かれたディズニー映画「青きドナウ」の主題は、変声期の悩みです。
そこでは、変声期が近づいて、ソプラノからアルトにまわされたピーター少年が、新入生でソプラノのソロに抜擢 され、自分の役を奪ったトニー少年にいろいろと意地悪をする場面がみられます。
これらの行動の深層心理を考えるとき、肯定できないまでもうなずけるものがあります。
しかし、蝶々がさなぎの時期を越して美しい成虫になるように、変声期という冬の時期をじっと耐え、心を磨 いた少年だけが大きくはばたくのです。
そんなことができるならば、その少年の一生にとってボーイ・ソプラノは美しき思い出であ ると同時に、人生のプロローグとさえなるでしょう。
ボーイ・ソプラノは、少年時代だけに与えられた仮の声なのですから、いつまでもそれにし がみつくことは、むしろ、その少年の人間的成長を妨げるのではないでしょうか。



消え去ることの美


1980年代に、アレッド・ジョーンズという「百年に一人」と言われた優れたボーイ・ソプラノがたいへん脚光を浴びました。
出身地のイギリスでは、そのCDがプラチナ・ディスクとなり、少し遅れて、アレッド・ジョーンズが変声してから 、日本でも、十枚近いCDややビデオが発売されました。
その解説書や紹介記事には、アレッド・ジョーンズの歌唱を通して、ボーイ・ソプラノの 魅力についても各界の人が、一文を書いています。
そこで、それらを参考にしながら、ボーイ・ソプラノの美について、私見を述べていきましょう。
作曲家の三枝成章は、アレッド・ジョーンズのボーイ・ソプラノを、この喧騒の時代への慰めとなる「静的な心の 平安」をもたらしてくれるものとして捉えています。
音楽評論家の志摩栄八郎もまた、心が洗われ、しばし、この喧騒な浮世を忘れさせてくれると述べています。
さらに、漫画家の砂川しげひさは、次のように述べています。

・・・・・月下美人という花がある。ぼくは、アレッド・ジョーンズを聴いて、真っ先にこのはか ない花を思い出した。
この少年は自ら滅びゆく運命を拒絶して、今の時期をただ美しく、一生懸命咲き誇っていることに感動する。
この月明かりに光ることに全力を注ぎ込んでいる短い開花を、「むごい」ととるか「極限の美意識」と捉えるか、人それぞれだろうが、 ぼくは絶対後者をとりたい。・・・・・

また、堀内修は、男がボーイ・ソプラノの声にひかれるのは、永遠に失った少年時代の声に憧れるか らという説を、あまりあてにならないとしながら紹介しています。
私は、ボーイ・ソプラノの美を、ただ可愛らしさだけによるものではないと考えます。
それは、「天使の歌声」という言葉に象徴される、清純でストイックな美しさであり、また、同じ高さの声を持つ少女や大人の女には出せない、少年だけが出し得る透明な世界であると考えます。
しかし、その時を精一杯生きている少年たちは、おそらく、その本当の美には気付いていません。
美は、むしろそれを愛でる人の心の中にあるものではないでしょうか。
大人は、知っています。自分が成長の過程で失ってきた美しいものがいかに大きいものであったかを。
また、人は年齢に係わりなく、聖なるものに対する憧れをもっています。
それらが、ボーイ・ソプラノの歌声を聴くときに、心に甦り、現れてきます。
ボーイ・ソプラノを聴くとき、心が洗われ、安らぎをもたらすのはそのためではないでしょうか。
「癒しの音楽」としてボーイ・ソプラノが脚光を浴びるようになったのは決して偶然ではありません。
「少年の日は、いま」という合唱曲があります。そのクライマックスに、

「少年の日は、いま、君だけのもの」

という歌詞がありますが、そのようなことに気付いている少年は、どれほどいるでしょうか。
もし、自分のボーイ・ソプラノの「美」を誇る少年がいたら、それはむしろ「醜」につながります。
何故なら、この資質は、天から、あるいは両親から与えられたものであるからです。
謙虚さは、ボーイ・ソプラノを清冽な美しさにします。哲学者のアランは、次のように言っています。

「もし、歌手が一寸でも謙虚さを失ったら、それは、ただの叫び声に過ぎない。」

と。
同時に、この美は、移ろいすいものです。
もし、変声期というものがなければ、ボーイ・ソプラノは、これほどの輝きを見せないのではないでしょうか。
消え去るが故に美しいのです。作家の増山のりえは、これを“変声期の残酷で輝きを増す少年たちの聖なる声”という詩的な表現で表しています。
このような美意識は、桜花や、初霜の美を愛でる心にも似ています。
もし、散らない桜、消えない初霜があったならば、それは、「美」といえるでしょうか。
仮にそこに美があったとしても、それは、むしろ、しぶとさや不とう不屈を表すような、また違ったものになるでしょう。